はじめに
産後うつ病の報告は、最近の20年間に国内外で蓄積されてきた。しかし、育児機能の評価や育児支援はまだこれからの課題でもある。
妊産婦は、生物学的な変化と心理社会的な変化を経験する。この変化は妊娠や出産という共通の時間軸にそって、全ての女性に生じるものであり、その中にはメンタルヘルスの障害をきたす女性が存在する。またその障害の要因は、生物学的要因から心理社会的要因までさまざまである。しかも、メンタルヘルスの障害は、ごく軽度で本人自身や家族にも見過ごされてしまうものから、明らかに精神科治療が必要なものまでその重篤度や緊急度もさまざまである。
そうなると、その女性と育児の支援をどのようなスタッフがどこで担うかが、その支援の内容と共に課題となる。九州大学の中野仁雄教授は、周産期のメンタルヘルスの課題の中でも最も頻度が多く重要な産後うつ病に取り組まれた。各専門領域の研究者や臨床スタッフを結集して、この課題に取り組むことを提唱し、平成4年度からの厚生省班研究において妊産褥婦の精神面支援の研究を遂行されてきた。
この章では、「健やか親子21」の達成の鍵を握るこれからの育児支援を考えていく。そのためには、これまでの研究や臨床の活動の軌跡を振り返ってまとめ、明らかになったことを確認したい。そして、妊産婦のメンタルヘルスと育児支援の視点から、現在のわが国の母子保健の資源や機能が有効に活用されているか、また現在何がなされていないかについて現状を分析する。そこから今後の課題を明らかにすることで、何が「健やか親子21」の達成の鍵を握っているのか、そして今後の育児支援の方向性を検討することにもなる。
1. これからの育児支援の青写真の作成のために
(1) 産後うつ病になぜ支援が必要か
産後うつ病が支援の標的疾患となる理由は、発症頻度が高く、スクリーニングで検出されること、また、子どもの長期的な認知や情緒・行動発達への否定的影響をもたらすエビデンスが蓄積されていること、周産期を要の時期として母子保健システムを利用できること、有効な支援を地域単位で実行し、それが浸透しやすいかたちで提供できる可能性があることなどがあげられよう(文献1)。
出生前の痛みの軽減
(2) 周産期精神医学の研究の軌跡から学ぶもの
1) 研究の取り組みのいきさつと特徴
周産期精神医学の重要性をいち早く認識し、先に述べた統合的な班研究を立ち上げたのが精神科ではなく産科の医師である九州大学の中野仁雄教授であったことは、産科医療携わる人々には、誇りに感じることであろう。この背景には、厚生省「これからの母子医療に関する検討会」がまとめた中長期プランに「親子の心の問題」の重要性が初めて盛られたことにもよる。研究がはじめられたいきさつは、「妊産婦をとりまく社会環境が近年大きく変化するなかで、母子の精神保健の重要性が注目されてきている。本邦では分娩に伴う精神障害に関した特定地域での正確な実態すら把握されておらず、欧米の母子精神保健行政に比し大きく立ち遅れている。」「したがって、本邦における産後精神障害の実態を把握するために広範囲な� ��学調査を行うことは重要な課題のひとつである。」と明言されていた。
産後うつ病に関しては、最終研究協力機関は、全国14の大学病院に及んだ。その結果発症頻度は、欧米の先行研究と同じく近似して高く20%であった。後に全国の地域保健所を主体とした調査では、これより頻度は若干下がり、13.9%となるが、これは身体・産科合併症の多い大学病院との違いも考えられる。また妊産婦に対する精神面支援については、助産師を中心とする母子保健スタッフが、妊娠分娩を通じて一貫して支援することの効果や重要性がすでに、研究当初から着目されていた。
それが、地域の助産師や保健師による母子訪問の場へとつながり、地域母子保健の行政と結びつくようになった。また、比較的新しい領域である周産期の女性への精神面支援の実施については、支援スタッフを対象にした教育啓蒙活動の成果や実践の効果などの評価も必要となる。最近ではその広報には、インターネットの利用も考えられている(文献2)。このような包括的な研究がおこなわれてきたことが特徴である。
2) 助産師・保健師の役割の重要さ
この班研究で重要な役割を担ってきたのが助産師や保健師である。なかでも、妊産婦にもっとも身近に接する助産師は、妊産婦の精神疾患を理解し評価するために、研究協力者である精神科医師の北村俊則教授の下で、病院などの施設の外来における精神科診断面接の方法を学んだ。それにより、助産師が系統的にうつ病などの評価をすることが可能になったと思われる。これは精神科診断もさることながら「妊産婦の症状のとらえかた」つまり、その妊産婦の話や行動が示している精神医学的な意味を把握することに意義があると考えられる。
地域の母子保健については、私たち九州大学病院の産後うつ病の研究者と福岡市の一保健所が連携して、質問票を用いた母子精神保健の活動を平成10年度より開始した。それが、福岡市の七つの全保健所に広がり、平成13年度から14年度にかけて、全国調査が行われ、産後うつ病の頻度や、赤ちゃんへの気持ちについての分析を行った(文献3)。その結果、エジンバラ産後うつ病質問紙(EPDS)で、13.9%であり、これまで「産後の肥立ちが悪い」というような、実態が把握しにくい出産後の母親の精神面に関して、国の政策目標の一つとしての数字としてあらわされたことに意味があると考える。また、EPDS の得点と赤ちゃんへの否定的な気持ちにも相関がみられた。こうなると、このような産後うつ病の発症を、妊娠中から予防しよう、また、産後うつ病の発症の危険性のある妊婦を同定して、早期から育児サポートを開始することが必要となり、次に述べるような試みが現在行われている。
うつ病の悲しみ死
3) 九州大学病院母子メンタルヘルスクリニックの紹介
妊婦から取り組める周産期のメンタルヘルスの専門外来のモデルを考え、精神科外来に場を借りて、九州大学病院母子メンタルヘルスクリニックを開設することになった(文献4)。スタッフは、周産母子センターの産科医師と助産師と私たち精神科医師と心理士から構成され、妊娠中に精神疾患がみられる、精神科既往歴がある、およびサポートが乏しいなど心理社会的な要因がみられる母親が対象となり、妊娠中から出産後数か月まで一貫してケアと治療を行っている。その経過の中で、最近では、精神科診断の有無にかかわらず、子どもに何らあたたかい感情を示すことなく、「お腹の赤ちゃんが嫌」、出産後も母子で一緒に過ごしてみたが幸せな感情が全く湧かず「里子に出したい」と訴える「胎児拒否」の例や、出産後に赤ち� �んに対して何ら情緒的絆を感じることができないため、育児が苦痛で仕方がないというボンディング障害の母親も経験した。その程度も経過もまちまちであり、今後の治療のストラテジーの開発が待たれる文献5、6、7。
4) 施設から地域に結ぶ育児支援:助産師による出産前後の連携
母親のメンタルヘルスの障害と子どもへの情緒的な絆の関連はじつに様々である。ひとつの専門機関のみで完結して母子を継続ケアすることはほとんど不可能に近い。母親の育児機能と子どもの成長を長い目で見ていくことが必要であり、そのためには病院助産師から地域母子保健の助産師や保健師に出産後のケアについて、ある時点で依頼しなければならないであろう。時には、出産前から、地域と連携を組むこともケースによっては必要となる。先に述べた私たちの母子メンタルヘルスクリニックでは、産科と精神科スタッフが毎週1回1週間で対応または診察した妊産婦の状況の情報交換を行っている。そこで、あらかじめ出産後に育児が困難になると予想された妊婦、あるいは出産後に育児機能に支障がみられた母親は、私た� ��の外来とも連携のもと、妊産婦の居住する地域の保健所に連絡をいれている。
これらの活動は、必ずしも周産期精神医学の専門の精神科や当病院のような専門の母子メンタルヘルスクリニックがなくても、連携のキーパーソンとシステムがあればある程度機能できる。もっとも大切な点は、妊産婦のメンタルヘルスに留意するコンセプトを各領域のスタッフが共有することであり、地域や施設の特徴を活かした工夫も可能である。
産後うつ病遅い
(3) 妊婦への予防精神医学と、育児支援における虐待予防の現在の取り組み
21世紀は「予防」医学の時代である。しかも、メンタルヘルスの時代でもある。産後うつ病の発症危険因子の多くは、心理社会的要因であり(文献8)、妊娠中から評価できるため、これを応用した予防的介入の試みがなされている。北村らは、中野班における協力大学病院で、助産師による精神科診断面接の実践を行っていたが、一昨年度より新たに北村班として妊娠期からスタートする産後うつ病の予防活動に取り組んでいる。同様な研究での効果についての報告の結果には、まだ見解の一致を見ていないが(文献9)、対人関係療法の理論を基本にした活動の取り組みである。ここでの主体となる技法はカウンセリングである。そのためには、先入観をもたない、つまり、相手を聴くこと、読みとること、感じることが要となる。ただ� ��これにはトレーニングが必要である。時間やマンパワーの問題の解決を図る必要はあるものの、介入効果が期待されているところであり、新しく正しい専門知識とカウンセリングマインドをもってのぞむことが必要である(文献10)。
一方、地域母子精神保健では、もっと広域で、保健活動のレベルを上げて、かつ実施しやすいプログラムが必要となってくる。このため、私たちは、地域でできる質問票を組み合わせた母子支援の方法をマニュアルに紹介した(文献11)。これは、[1] 母親の心理社会背景や育児環境などが確認できる「育児支援チェックリスト、[2] エジンバラ産後うつ病質問票12」[3] 赤ちゃんへの気持ち質問票(文献3)の3つの質問票からなり、母子と育児環境の総合的な評価と、それに基づいた育児支援の方針をたてることができる。また、これを実施するための研修セミナーを、平成17年8月と9月に東京と福岡で母子衛生研究所により企画している。これは、早期の育児支援による虐待発生の予防活動にもなっている。この領域の特徴は、その効果判定が妊産婦のみならず、子どもとの関係性や、子どもの発達も含まれていることである。このため予防効果の判定についても、縦断的経過を追った長期的効果の比較研究が必要である。
2.「健やか親子21」の達成の鍵を握るこれからの育児支援
いまだ実践されていないが、今後取り組むべき新しい試みを提唱し、なぜそれがこれからの育児支援プログラムにとって重要であるかを述べる。
(1) 妊婦に生じるDVの問題と子どもの虐待の予防活動との統合
妊婦のDV は、出産後は子どもの虐待にも関連することはよく言われている。そこで、DVが認められる妊婦の家庭を、先に述べた地域保健所からの母子訪問の対象とし、子どもの虐待への予防活動にと統合する。ただしこのためには、わが国の妊婦のDV を同定するスクリーニングの検討を行い、それを妊婦外来などでどのように行うか、また、それとあわせて10代の妊娠の問題を産科スタッフがいかにメンタルヘルス支援にのせていくかが重要な課題となる。そこが、今後母子保健への取り組みが効果的にできるか否かにつながる。その意味で、妊娠の始まりから含めて、各時期で妊婦に携わる助産師、産科医師などの産科スタッフは、他の領域のスタッフへの連携の始まりに位置している。その意味で、助産師のコーディネートの役割がその後にまで重要な要となる。
(2) 妊婦のストレス管理の重要性
妊婦のDV のように強いストレスのみではなく、妊婦のストレスと関連する問題として、生物学的次元での胎児へのプログラミング仮説の報告がある。妊婦の飲酒や薬物依存など精神科医療と縁の深い母親ではなく、妊娠中の女性のストレスや不安そのものが、器官形成異常や早産や子宮内発育不全の原因となる可能性があるとの報告である(文献13)。
妊婦のストレスが、過剰なグルココルチコイドを産生したり、子宮内血流量を減少させ、それが胎盤を経て胎児の器官形成や体内の発育に否定的な影響を与えていると考えられている。その結果、低出生体重、子どもの認知の発達の障害、多動や衝動性などの行動の長期予後にも影響しているという報告がある。
これらの、妊娠中の妊婦のストレスは、妊娠や生まれてくる子どもへの態度、また出生後の母子の相互作用にも影響し、子どもの側に生じた上述した不利益の結果とあいまって「育児」を困難にする。これらを考えると妊娠中のストレス管理は、すでに育児支援の始まりなのである。
(3)「育児のつまずき」や「母子関係」に着目した出産後の母親への育児支援
これまでは、出産後は、産後うつ病を中心に、周産期の精神科疾患を支援の対象として焦点をあててきた。しかしこれからは、「育児のストレスや支障」や「母子関係の障害」をテーマとして、それを改善するべく育児支援を行うことが求められており、実際精神科疾患の有無とは別に考えるべき母子間の問題も多い文献14、15。すなわち、対象を、明らかな精神科疾患の診断がつかない母親まで含めた、裾野の広い支援が望まれる。
おわりに
妊産婦のメンタルヘルスの不全がもたらすグローバルな経済的な不利益を鑑みて育児支援の必要性を認識し、そのプログラムを立てることは、精神保健の枠を超えた政策のレベルでも大切である。
たとえば、Chisholmらは(文献16)、うつ病は、虚血性心疾患、喘息や閉塞性呼吸器疾患や発展途上国などに蔓延している下痢などによってもたらされる経済的な負担と同じ程度であり、全体の負荷の約5%を担っていると指摘している。産後うつ病では、育児機能不全およびそれに関連する次世代への否定的予後まで含めると、その経済的負荷はさらに増大する。そして、WHOによる経済効率のよい疾患の介入プログラムの一環として、コミュニティーベースでのアウトリーチタイプの介入が理にかなっているとしている。
最近の妊婦ストレスの児への影響などの報告で見る限り、アウトリーチタイプの支援の対象は、産後うつ病のみではない。10代の妊娠で健診にあらわれない、またDV を受けながら自ら解決を求めるところまでに至らない妊婦や、その転帰としての母子、また、社会経済的には恵まれているもののストレス下で仕事を続けている妊産婦なども含めて、今後の育児支援の対象は広い。
【文献】
1) McLennan JD, Offord DR:Should postnatal depression be targeted to improve child mental health ? ;J American Academy of Child and Adolescent Psychiatry. 41(1):28-35, 2002
2) 岡野禎治、中山良平、豊田長康:周産期の精神保健活動の新しい試みインターネットを用いた啓蒙活動および支援; 臨床精神医学、8、1027-1033、2004
3) 鈴宮寛子、山下洋、吉田敬子:出産後の母親にみられる抑うつ感情とボンディング障害自己質問紙を活用した周産期精神保健における支援方法の検討; 精神科診断学14(1):49-57、2003
4) 吉田敬子、竹内理恵子、山下洋:妊娠中からのメンタルヘルス介入の試み;最新精神医学8(2):131-138,2003
5) Brockington IF:養育者の愛着スタイルとボンディング障害(吉田敬子訳) 精神科診断学14(1):7-17,2003
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7) 山下洋:産後うつ病とボンディング障害の関連;精神科診断学53:41-48,2003
8) Boyce P:Risk factors for postnatal depression:a review and risk factors in Australian populations. Arch Women's Mental Health, 6s, s43-s50, 2003
9) Stuart S,O'Hara MW, Gorman LL:The prevention and psychotherapeutic treatment of postpartum depression. Arch Womens Mental health 6s s57-69, 2003
10) 吉田敬子:カウンセリングとは何か-そのscienceとart- ホルモンと臨床52(2):3-12,2004
11) 吉田敬子、山下洋、鈴宮寛子:産後の母親のメンタルヘルスと育児支援マニュアル自己記入式質問票を活用した援助の実際平成16年度厚生労働科学研究(子ども家庭総合研究事業)
12) 岡野禎治、村田真理子、増地聡子他(1996):日本版エジンバラ産後うつ病自己評価票(EPDS)の信頼性と妥当性、精神科診断学7、525-533、2005
13) GloverV, Thomas G O?Connor, 吉田敬子(訳):出産前の母親のストレスや不安が子どもに与える長期的影響、臨床精神医学、33(8):983-994、2004
14) 吉田敬子、林もも子、A.Bifulco:アタッチメント・スタイル面接による養育者の対人関係能力の評価方法-日本版Attachment Style Interview(ASI)の信頼性と有用性の検討-;精神科診断学14(1)、29-40:2003
15) 吉田敬子、山下洋、岩元澄子:Attachment Style Interviewによる心理社会的脆弱性の評価-うつ病の発症機序とボンディング障害の関連についての症例検討-;精神科診断学14(1)59-69,2003
16) Chisholm D,Sanderson K, Ayuso-mateos JL, Saxena S:Reducing the global bueden of depression. British Journal of Psychiatry, 184, 393-403, 2004
母子保健情報第51号(2005年5月刊)特集:産後うつ病の評価と介入から-育児支援に向けての新たな展開より転載
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